雨の日の神保町
雨の日の神保町は、古書店街がしんと静まって、いちばん本屋らしい顔をします。傘をたたんで店に入ると、雨の音が遠くなる。あの日、私は靖国通りから一歩入った古書店で、ただなんとなく文庫の棚を眺めていました。用事があったわけでも、探している本があったわけでもありません。あてもなく棚を見る時間が、古書店ではいちばん贅沢です。
一冊の本との出会い
目に留まったのは、内田百閒の『阿房列車』でした。昭和40年代の文庫版で、カバーは擦れ、値札は300円。汽車に乗って、目的地を決めずに旅をする話。何気なく手に取って、立ち読みのまま10ページほど読み進めて、そのままレジへ向かいました。理由はうまく言えませんが、この本は「今、読むべき一冊」だと、そのとき確かに思ったのです。
書き込みのある古本
帰ってから気づいたのは、本文に誰かの鉛筆の線が引かれていることでした。引かれたのは「どこでもいいから、汽車に乗りたい」という一行。何十年か前に、この本を読んだ誰かが、同じ場所で立ち止まっていた。その書き込みを見た瞬間、本は「私だけの一冊」から「誰かと共有した一冊」になりました。線を引いた人と、それを読む私と。同じ一行の前で、二人の時間が重なります。
なぜ神保町なのか
神保町では、100円のワゴンから初版本まで、値段は本の値打ちと必ずしも一致しません。探す楽しみは、むしろ値段の安い棚にあります。一冊の古本には、前の持ち主の時間が一緒に詰まっています。誰かが読み、誰かが手放し、店頭に並んで、また誰かの手に渡る。それが、新刊にはない古本の引力です。神保町は、そうした「時間の棚」が一番多く並ぶ街なのだと思います。
その一冊が、今もそばにある
あの日の一冊は、今も本棚の手の届く場所にあります。旅に出るとき、何度か鞄に入れました。読むたびに、雨の日の神保町と、誰かの鉛筆の線を思い出します。本は、買った日に読むものではありません。出会った日のことを、いつまでも連れて歩くものなのだと思います。もしあなたが神保町で古本を手に取ったら、ぜひ奥付と、書き込みの有無を見てみてください。そこに、もう一人の読者の時間が隠れています。